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妃嬪が多すぎた結果、古代中国皇帝が行った「驚きの選妃方法3選」

古代中国の皇帝たちは、数百から数千人規模ともいわれる妃嬪を抱えていました。

しかし後宮が巨大化すると、「今夜、誰のもとへ向かうか」は単なる恋愛感情では済まされず、後宮内の権力関係や政治にも関わる問題となっていきます。

その中で皇帝たちは、羊に進路を任せたり、蝶やホタルを使ったり、さらには札による制度的な選択を導入するなど、さまざまな方法で“今夜の相手”を決めていました。

晋の武帝・司馬炎による「羊車選妃」、唐の玄宗にまつわる「蝴蝶選妃」や「螢幸」、そして清朝で制度化された「翻牌子」とは、どのようなものだったのでしょうか。

後宮が肥大化した背景とともに、古代中国皇帝たちの驚きの選妃方法を辿ります。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/chinese/118396/

「安土桃山時代」は実は後世の呼び名だった? 学界で広がる「織豊時代」とは

日本史の時代区分として広く知られる「安土桃山時代」。

しかし近年、歴史学界では「織豊時代」という呼び方が広まりつつあります。

これは、織田信長の「織」と豊臣秀吉の「豊」を組み合わせた名称で、戦国終盤の実態をより正確に表す言葉として注目されているのです。

特に問題視されているのが、「桃山」という地名でした。

実はこの名前は、秀吉の死後になってから使われるようになったもので、当時は存在していませんでした。

さらに秀吉の本拠地は伏見城だけではなく、大坂城や聚楽第などたびたび移り変わっており、「桃山」という一地点だけで時代を象徴することへの疑問も出ています。

そのため近年では、「織豊時代」や「安土大坂時代」といった呼称も提案されるようになりました。

私たちが当たり前に使っている歴史用語も、実は後世につくられたものだったのです。

時代の名前から見えてくる、日本史の意外な裏側に迫ります。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/121425/

【古代中国】夫が妻を他人に貸して子を産ませた 「典妻」とは何だったのか

古代中国には、夫が自分の妻を他人に「貸し出す」という、現代では考え難い婚姻慣習が存在していました。

それが「典妻(てんさい)」です。

「典」には質入れや抵当の意味があり、生活に困窮した夫が、金銭と引き換えに妻を他人へ預ける契約を指していました。

典妻された女性は、借り受けた側の家で事実上の妻として暮らし、子どもを産むことまで求められる場合もありました。

生まれた子は、その家の後継として扱われることもあったのです。

こうした慣習は、戦乱や飢饉、重税によって庶民の生活が追い詰められる中で広がっていきました。

歴代王朝は法律で禁止しようとしましたが、実際には清代から近代にかけても地方社会に残り続けていたとされています。

背景には、当時の社会不安や貧困、そして家を存続させようとする価値観がありました。

典妻という制度を通して、古代中国の人々が置かれていた厳しい現実と、時代ごとの婚姻観を読み解いていきます。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/chinese/113068/

【知っているようで知らない三国志の結末】 三国時代を終わらせた男「斗預」とは

三国志といえば、諸葛孔明や関羽、曹操たちの活躍で知られていますが、実は多くの作品は「蜀の滅亡」で物語を終えています。

しかし歴史上では、その後も魏から晋への政権交代が続き、最終的に280年、晋が呉を滅ぼして三国時代は終結しました。

その最後の戦いを指揮したのが、晋の名将・杜預(とよ)です。

名門出身ながら、父の失脚によって不遇の青年時代を送り、それでも学問を続けて復活。

やがて司馬一族との縁から政界へ戻り、軍略家・政治家として頭角を現しました。

杜預は武勇型の将軍ではなく、馬術や弓も苦手だったといわれます。

しかし卓越した戦略眼を持ち、異民族討伐や国家改革で実績を重ねます。

そして279年、晋による呉討伐の総司令官に任命されると、「竹を割るように勝てる」と語った通り、晋軍は一気に進軍。翌280年、呉は降伏し、長く続いた三国時代は幕を閉じました。

諸葛亮でも司馬懿でもない、「三国志を終わらせた男」杜預の生涯を紹介しま
す。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/108625/

【妻に女性遍歴を暴露し、82歳で家出】文豪トルストイの意外すぎる最期

『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』で知られるロシアの文豪・トルストイ。

非暴力や人道主義を説いた偉大な思想家として知られていますが、その私生活は理想とはほど遠く、長年にわたる深刻な夫婦不和を抱えていました。

結婚後、トルストイは若き妻ソフィアに、自らの日記を読ませます。

しかしそこには、娼婦通いや女性遍歴など、生々しい過去が詳細に記されていました。

強い衝撃を受けたソフィアとの関係は次第に悪化。

さらにトルストイは「財産を捨てる」「夫婦ではなく兄妹のように暮らしたい」など極端な思想を口にするようになり、家庭は混乱していきます。

そして82歳の冬、ついにトルストイは家を飛び出しました。

世界的文豪トルストイの「意外すぎる晩年「を紹介します。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/western/99536/

豊臣秀吉の幼名「日吉丸」は後世の創作? 「木下」姓にも残る意外な真実

豊臣秀吉の幼名といえば「日吉丸」、若き日の名といえば「木下藤吉郎」がよく知られています。

しかし近年では、この2つの名前に対して、従来とは違う見方も出ています。

まず「日吉丸」は、秀吉の死後に書かれた『太閤記』で広まった名で、確かな同時代史料には確認できません。

さらに「○○丸」という幼名は、もともと武士や貴族の子どもに多いもので、農民出身とされる秀吉にはやや不自然とも考えられています。

一方、「木下藤吉郎」の木下についても、父の姓を継いだという通説だけでは説明しきれません。

近年では、妻・おねの実家である木下家との関係から名乗った可能性も指摘されています。

秀吉はその後、「羽柴」「豊臣」へと名を変え、天下人へと駆け上がりました。

誰もが知る秀吉の名前の裏にある、意外な謎を読み解きます。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/116358/

豊臣軍との激戦『八王子城合戦』 女性や子どもたちも身投げした悲劇とは

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の最中、東京都八王子市にあった八王子城で壮絶な戦いが起きました。

城主・北条氏照は小田原城へ出陣中で、城に残されていたのは少数の兵と、多くの女性や子どもたち。

そこへ前田利家や上杉景勝ら率いる豊臣軍が数万の兵で襲いかかったのです。

濃霧の中で始まった戦闘は激戦となり、八王子城はわずか1日で落城。

城兵たちは最後まで抵抗しましたが、圧倒的兵力の前に力尽きました。

特に有名なのが、「御主殿の滝」にまつわる悲劇です。

伝承によれば、氏照の正室や女性・子どもたちは、落城後に自害し、滝へ身を投げたとされています。

城山川が血で赤く染まったという逸話まで残り、現在も地元には犠牲者を弔う風習が伝わっています。

戦国時代末期に起きた、関東屈指の悲劇を掘り下げます。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/117005/

夫の暴力や不倫に苦しむ妻を救った「縁切寺」とは? 江戸時代の離婚事情

江戸時代、夫の暴力や不倫、嫁姑問題などに苦しむ女性たちの「最後の避難所」となっていたのが、「縁切寺」でした。

当時は、基本的に夫側にしか離婚を認める権利がなく、妻から自由に離婚を申し出ることは困難でした。

そんな中、女性が寺に駆け込むと、寺は夫婦の調停を行い、夫が応じない場合でも、一定期間寺で暮らせば離婚を成立させることができたのです。

特に有名なのが、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺。
どちらも江戸幕府公認の“縁切寺”として、多くの女性たちを保護しました。

実は江戸時代の離婚率は、現代より高かったともいわれています。

「昔の女性は離婚できなかった」というイメージとは少し違う、日本の離婚制度と縁切寺の歴史を紹介します。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/105304/

台湾を蝕んでいた『アヘン問題』日本はどのようにして根絶に成功したのか?

日本が台湾を植民地化した当時、台湾ではアヘン中毒が深刻な社会問題となっていました。

住民の間ではアヘン吸引が広く浸透しており、「アヘンを禁止するなら武力で抵抗する」という反発まで起きていたほどです。

こうした状況の中、日本政府はアヘンを即座に禁止するのではなく、時間をかけて減らしていく「漸禁(ぜんきん)政策」を採用しました。

この政策を主導したのが、後に満鉄総裁なども務める後藤新平です。

総督府による専売制を導入し、購入を常習者だけに限定。

さらに価格を高額に設定することで、新たな中毒者を増やさない仕組みを作りました。

その結果、台湾のアヘン常習者は数十年かけて大幅に減少し、日本のアヘン対策は一定の成功を収めます。

しかし一方で、専売制度は莫大な利益を生み、日本統治の重要な財源にもなっていました。

アヘン根絶の裏にあった、日本統治の現実と後藤新平の政策を読み解きます。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/bakumatu/117593/

【武田信玄の影武者だった男】 土屋昌続が長篠で迎えた壮絶な最期

武田信玄には、「奥近習六人衆」と呼ばれる若き側近集団がいました。

その中でも特に信玄から寵愛されていたのが、土屋昌続です。

昌続は、信玄から名前の一字を与えられただけでなく、歌会で隣に座ることを許されるなど特別扱いを受けていました。

さらに『甲陽軍鑑』には、信玄の夜伽相手を務めたとも記されています。

若くして侍大将に抜擢された昌続は、川中島や三方ヶ原などで武功を重ね、武田家の重要人物へと成長。

しかし、信玄の死後に起きた「長篠の戦い」で、織田軍の鉄砲隊に突撃し壮絶な最期を迎えました。

さらに後世には、「実は信玄の影武者だった」という説まで語られています。

主君に深く愛され、最後まで武田家に忠義を尽くした土屋昌続。その生涯を紹介します。

草の実堂
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/99110/